油彩つれづれ 16
花―吉野山、弘前城址に遊ぶー
龍ヶ崎牛久医師会 つくばセントラル病院脳神経外科 榎本貴夫
散りゆく花びら(桜の)を見ると必ず足を止めるのは日本人である、とある親日フランス人が言っていた。そうかも知れない、私も止める。いつの頃から一億人の心が同じ価値判断を共有することになったのであろうか。
いつぞや吉野の桜を楽しみに行ったとき奥山にまで足を延ばし西行庵を訪れたことがある。近くに義経の隠れ屋があり今日の時代でも十分に辺鄙な山ふところである。その尾根道をを余ほど登り、次いで左手急な南斜面を手摺につかまりながらジクザグに下ると、狭い踊り場状の台地が現れ、凡そ六畳程の庵がポツリとあった。ふらふらと山野を放浪している法師の姿、当時としてはどのように受け止められていたのであろうか。奇人だったのか、仏であったのであろうか。
奈良時代、万葉集ではまだ花といえばウメのことであった。“我が園に 梅の花散る ひさかたの天より雪の 流れ来るかも”(大伴旅人、角川ソフィア文庫)私の庭に梅の花が散っている、まるで天から雪が流れ降りてくるかのようだ。なんと絵画的な描写であろうか。さらにある。“梅の花 夢に語らく みやびたる 花と我れ思ふ 酒に浮かべこそ”(詠人不詳)夢の中に梅がでてきて私は雅な花だから盃に浮かべて楽しんでね、と言っていた。
当時のインテリの中国趣味であろう。ところが平安時代の古今和歌集では“春雨の 降るは 涙か 桜花 散るを惜しまぬ 人しなければ”(新潮日本古典集成、古今和歌集)春雨は涙のようだ、桜の花が散るのを惜しまぬ人はいないのだから。また更に、“いざ桜 我も散りなむ ひとさかり ありなば人に 憂きめ見えなむ 承均(そうく)法師 桜よ私も散りましょう、長く生きても恥をかくだけだから。少し危険思想も見え隠れするが、花はサクラになりつつあった。恐らくひらがなの発明なども手伝い中国趣味から大和趣味に変化し恐らくは庭のつくりなどにも変化があったのではないかと推察される。更に平安末から鎌倉になると“吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ”西行法師(新潮日本古典集成、新古今和歌集上)去年吉野山につけておいた道しるべを変更し、まだ見ていない桜を探しに行こうと思う。桜の一字はすでに無く、ただ花のみで全てが暗示されている。
江戸に入ると染井吉野が作られ江戸っ子の熱狂に包まれた。しかしながら昭和になるとその散る様が人の生きざま、引き際の手本として戦意高揚に利用されたのである。九州知覧の旧特攻基地に展示されている遺稿にもこの文字は多い。従って年配の日本人にとっては陰陽複雑な思いをわが身、父母兄弟にアナォジーさせるのであろう。しばし歩みを止めるのも無理からぬところである。
さてさて、せっかく吉野まで来たのだ。西行先生の本歌を取って私なら“願はくは 花の下にて我飲まむ そのきさらぎの 月末のころ”。私が凡夫であることはまず間違いのないことである。
絵は弘前城址のお堀
2011 H23 9 11
作 脳神経外科 榎本 貴夫
| 医療法人つくばセントラル病院 〒300-1211 茨城県牛久市柏田町1589-3 電話 : 029-872-1771 FAX : 029-874-4763 E-Mail:info@central.or.jp |