画廊セントラル

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平潟港

 茨城のシンボルは何かと訊かれて、昨今はつくば市と答える人も居るかも知れない。ここは一つ、目を江戸時代に戻し、当時の新幹線北前船の駅であった平潟港は如何であろうか。東周りの海道の重要港であった。戊申の時代会津に至る橋頭保であり、新政府がここに総督府を置き軍を駐屯させた、とある。
 私は島を見ている。がしかし島はもっと長く浅はかなるヒトの営みを見つめ続けてきたに相異ない。(榎本 貴夫・2018/2/8)

天の心をめざして


絵1

絵2

 日本人の胸底に常に存在している美意識はどのようにしていつ頃形成されてきたのであろうか。思うに古くは「春はあけぼのやうやう白くなりゆく山ぎわ・・」など諸々人物事物の在るべき姿を規定した枕草子の作者清少納言、秀吉の黄金趣味に囲まれた世界から逆に侘びさびに美の極致を垣間見た千利休の影響がすぐ頭に浮かぶ。焼きものの世界でも人的行為を極力排し、薪を使用した自然灰釉に心を寄よせてきたのである。この傾向は今も変わりはない。西洋趣味とは一線を画すものである。日本人がこれ程までに、自ずと然らしむ自然(じねん)に執着し、あるがままの自然(しぜん)を愛したのには更なる芸術家の一押しがあったと私は考えている。
 我々があれほど大事にする春秋の「お彼岸」は法事、農事には欠くことのできないエポックであるが英語ではequinoxであり、狩猟民族である彼らにとっては単なる中間点であり意味するところは少ない。クリスマス、復活祭、などは人為的な事象を寿ぐ行事である。一方農耕民族である我々は時間の移ろいを重視し、季節の中を動いている。正月、節分、桃・菖蒲の節句、衣替、24節季等々、生活の中深くまでこれ即ち自然を持ち込んできたのである。これは江戸時代初期の俳人、松尾芭蕉が季語を通して地球の、否、宇宙の意思と会話を交わし始めてからのことではないかと思っている。奥の細道の立石寺での「静かさや岩にしみいる蝉の声」の言葉を日本人は大切にして400余年も守り続けてきたのである。翁によれば「笈の小文」に(・・造化(自然の意)にしたがひて四時(四季の意)を友とす。見る処花にあらずということなし・・)とある。心を込めて在るがままの自然に向き合えば、すべてのものが花と輝くのである、の意だ。
 今、人的行為による環境破壊を排除し、静かに自然本来の姿を受けとめる精神が最も必要かと思われる。アフリカに端を発した現代人類の長駆20万年の歴史の最先端に今日の世界の混迷がある。主義主張至上主義では論戦布教が重視され、そこでは必ず軋轢が生じる。それに対し芭蕉翁のごとく季節の変遷即ち自然、そしてそれに向き合う心情の中からは争い事は起こるべくもないのである。人類たった一つの家「地球」の声を今一度聴いて自らを見つめ直すことも必要ではなかろうか。

  最近私が交わした自然との会話を2点紹介したい。絵1は桜―福岡堰―である。以前、茨城県南部にある小貝川は上流で鬼怒川に繋がっていて、関東北部山岳地帯から季節的に押し寄せる膨大な水量の逃げ口になっていた。このため流域の沼択は度重なる洪水に見舞われた。江戸時代、これを見かねた幕府が小貝川を鬼怒から切り離し、堰を造営した。これにより谷原(やはら)は潤沢な水田耕作地となり谷和原(やわはら)村と改名された。福岡はその小貝川三堰の一つである。今となっては江戸時代の民衆の難行苦行の幾ばくも知る由はない。今はただ静もる水面に花の重きに耐えかねた枝から花弁が散って止まない。絵2は朱昏―寶峯湖―である。中国湖南省張家界市武陵源・寶峯湖に遊んだことがある。湖は奇岩奇峯に挟まれた谷間の襞に沿って広がる。深い青緑色に染まる水面に朱塗りの東屋が一つ二つ張り出していて中から地元少数民族の娘の絹を引き裂く高音の叫ぶ様なうねる様な歌声が湖面を滑って彼方の山襞に消える。その時、何か中国人の心の一端を覗いた気がした。静かに瞼を閉じると脳裏に、暗黒の湖面、暁に燃える奇岩、蒼天に屹立する奇峯、日没の予感に泣く木々など天の声が走馬灯のように駆け巡った。後に筆をとりその妄想のうちの幾つかをカンバスに残した。本稿では宵に向かう前、一瞬の輝きを朱昏として供覧する。朱昏という語は辞書に無い。夕景を表す言葉に黄昏がある。文字は美しいが語音たそがれには悲しいイメージが色濃い。落ちていく陽のはかない美しさより時間を重ねた日輪の華麗さを表現したい。その意味で朱昏の造語には自信がある。(榎本 貴夫・2017/12/14)

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